練習 下書きだったので・・・

qqちゃん、コメントありがとうございます。

今、カテゴリーを「活動中のサークル」という名前でサイドバーに出しています。
これを、サークルのWPに当てはめると、ビル勉とか竹苑も入ってきてしまいます。

タグ に「ほめ研」「ソドミラ」「はなれい」とか作ってみたけど、
きちんと一覧にならないので、使い物になりません。
一応、「休止中のサークル」というタイトルを出すことはできたけど。

昨夜思いついた、テキストでリンク集を作って、サイドバーに入れてみようと思います。
これだったら、自分の表したいサークルだけどまとめられると思うの。
このWPでは、カテゴリ名を直すのが面倒なので、両方タブで試してみるわ。(16時)

キャー!! 大成功みたいよ。ありがたい。イヤー、窮すれば通ずか。

外観のウイジェットを見て下さいね。
ビルダーでリンク表を作りました。 サイドバーのタグをクリックしながら。

サントブラスカさんのキプロス見学

さて、女王との謁見も終わって、サントブラスカさんは精力的にキプロスを見て歩いたようだ。
——————–
キプロス島の町々は、ヴェネツィア風の建物が多くて美しい。それに、種々の果物のほかに、最上質の葡萄酒と塩と綿花の産地としても有名である。何につけても恵まれていて、人の住むには天国だが、ただ一つ、この暑さだけはたまらない。人々は短い袖のシャツを着て、その上に長い上着を羽織った姿だ。キプロスには、意気の時には島の南端に立ち寄っただけだったので、この機会に充分に見ようと、暑さにも負けずに見物に出歩く。
塩田も見学した。実に良く整備されていて、ヴェネツィア人が経営している。西欧で用いる岩塩でない塩は、この地から出荷されているものが多いとか。塩田の広さを実際にこの目で見た後では、それが事実であることを納得させられた。
———-

葡萄酒と言えば、確かにキプロスのワインは上質と定評があるらしい。
特にコマンダリアというワインが有名で、伝説にまでなっているらしい。
http://www.kyobare.co.jp/comm-his.php
http://www.budouya.jp/user_data/cyprus.php

クレオパトラも飲んだとか。港のあるレメソスなどで盛んに作られているとの事。

塩のこともあちこちで見かける。
ドロゲリア ピラミッドソルトビアンコ(キプロス産海塩) 380g
http://ciojapan.shop-pro.jp/?pid=27251572

パリパリ、さらりとした食感、手で潰して楽しむ塩。揚げ物の付け塩、カルパッチョの仕上げに。
トルコの南東、地中海の美しい海に浮かぶキプロス島にて、地中海の海水を塩田濃度を調整しながら天日で結晶化した海塩です。
その結晶の形はピラミッドの形をしている為「ピラミッドソルト」とも呼ばれています。

塩田が作られているとサントブラスカさんは言われているが
塩湖もあちこちにあるようで、ラルナカの塩湖は観光地になっているようだ。

船に戻ると

さて、キプロスを充分楽しんだサントブラスカさんだったが、船に戻ってみると・・・・

—————–
船に戻ると、わらわれのガレー船では大変な事態が起こっていた。二人の巡礼が死んでいたのだ。キプロス島特有のひどい熱気にやられたのである。その他の巡礼たちも、出航はしたものの、ほとんどがこの熱病に冒されていた。
私自身も例外ではなかった。船に戻った時からひどい高熱に冒され、6日間も苦しんだのである。その何日かは、全く風がなく、船の動きはにぶく、蓄えてある水まで腐りだすという状態だったのだ。
——————-
悪いことは重なるもので、

0-35

0-42

0-100

ヴィーナス誕生の地

キプロスはヴィーナス誕生の地としても有名である。

—————–
キプロスはヴィーナス誕生の地と言われている。古く半ば崩れた城が、「愛の城」と呼ばれて残っている。ここには、古代の愛の慣習が今でも残っているのであろうか。
——————-
ウィキペディアによると、海の泡から生まれたという その海岸は、パフォス近郊の海岸だという。

アプロディテの誕生
ギリシア神話では、美と愛の女神アプロディーテーは海の泡から生まれ、キプロス島に降り立ったとされる。以来、女神はキプロスを守護し、キプロスはアプロディーテーを崇拝する人々の聖地となった。
パフォス近郊の海岸には、アプロディーテー誕生の地とされるペトラ・トゥ・ロミウ(Petra tou Romiou, 「ギリシアの岩」の意)があり、アプロディテ神殿はこの海岸に近い丘の上に建てられた

http://www.cyprus-info.jp/heritage.html  より
パフォスはキプロスの世界遺産3つの内の一つなんでした。

Paphos (1980年ユネスコ世界遺産登録)
愛と美の女神アフロディーテは、現在のパフォスの町より25キロ東にある、岩が海より突き出したペトラ・トゥ・ロミウと呼ばれる海岸で誕生したとされています。その近郊には、紀元前1200年頃造られたアフロディーテ神殿の跡があり、かつてパフォスといえばこの辺りを指していました。ここは女神アフロディーテ伝説発祥の地でもあり、多くの巡礼者が後を絶たなかったといいます。
古代パフォスが衰退した後、紀元前320年、新たに現在のパフォスが建設されました。町には城壁や地下墓地群のほか、ローマ時代の貴族の館も多く残り、これらの館には東地中海のモザイク芸術の傑作といえるギリシア神話のモザイク画が残されています。

というわけで、パフォスの古代のお城などがたくさん残っているという事でした。
413px-Fort_pafos1280px-Tomb_of_the_Kings_Paphos_Cyrpus_3-2004

聖地巡礼パック旅行物語(その16)=巡礼を終えてヤッファに戻る

水爺さんの聖地巡礼の続きをなんとか作りたいと資料を集めたりしてみました。
が御大の後を引き継ぐのは、ちょっと畏れ多く、できるのかどうか不安です。
まずは練習をしてみることにしました。
—————————————————
帰途について語り始めるのは、ここから

 8月8日
 夜明け前にそれぞれの荷をまとめてイェルサレムを後にする。
 二人のイギリス人がシナイ半島を回り、カイロを経て、アレキサンドリアからヴェネツィア船に乗って帰る「特別コース」を取ることになり、ここで別れる。
 この二人以外は、全員が船長、ガイド、僧たちに引率されてろばにのり、来た時と同じ道を通って、ヤッファの港に着いた。翌々日の夕暮れであった。
8月10日
 ヤッファの港に着いた我々を「コンタリーナ号」の船員たちが小舟を駆って迎えに来てくれた。ラッパは鳴らす、太鼓は叩く、リュートは弾くの賑やかさで、大歓迎。我々が悪魔の懐から脱してきたのを喜ぶかのようだった。

水田さんは、7月20日 この地にサントブラスカさんたちが到着したときの記事をこのように書いておられる。 水田さんのヤッファの記事
イェルサレムもヤッファ(テルアビブ)も、戦乱の地である。
現在のヤッファについてはここに

サントブラスカさんたちは
7月20日から8月8日まで、聖地のあちこちをロバで巡る旅をしてきたわけだ。。
その間の出来事について、水田さんがまとめてくださるとの事。私達は船の旅をご一緒しよう。

船の仲間たちが楽器の演奏で迎えてくれたそうだが、リュートってどんな楽器だろう?
ウィキペディアで調べてみた。

8-course-tenor-renaissance-lute-04   1024px-Michelangelo_Caravaggio_020

 

 

ギターのようなマンドリンのような形。 頭がないのかと思えば、後ろに折れ曲がっている。

ラッパはヨーロッパでは郵便屋さんが鳴らしたらしい。ウィキペディアで見つけた画像はこんな
440px-Posthorn-echt

 

 

 

 
「14世紀 太鼓 ヨーロッパ」で検索すると、こんな画像が出てきた。
トルコの軍楽隊のものだ。
太鼓は、太古よりあったんだろうな。
http://tokyowe

聖地巡礼パック旅行物語(その17)=ヤッファからキプロスへ

8月11日、ヤッファを出航   15日 キプロス島に着く とある。

8月11日、夕方になって、ヤッファを出港する。
風は順風。帆だけで航行して、15日の日にキプロス島に着く。
ここから、船長の兄のアンプロージオ・コンタリーニ殿が、3年にわたったキプロス皇室顧問官の職務を終えて、母国へ帰られるので、われわれの船に同船することになる。
その準備が終わるまでの間を、巡礼たちは、キプロス見物に費やすことにした。

1

ヤッファは今のテルアビブなので、まっすぐ北の方へ行ったわけだ。

キプロスはどんな島だろう。

往路にレメソス(リマソール)を出航してヤッハへ向かうとあるので、
復路の港も、レメソス(リマソール)と思われる。

キプロス第2の都市との事。12世紀にイングランド王リチャード1世とナバラ王国の王女ベレンガリアが結婚式を挙げた地。レメソス城があり、ワイン産地としても知られる。

【レメソス城】は
レメソスにある中世の城。12世紀にイングランド王リチャード1世とナバラ王国の王女ベレンガリアが結婚式を挙げたとされる。オスマン帝国時代には牢獄として使われた。現在は中世博物館になっている。
いまはこんな形でのこっている。屋上の景色

聖地巡礼パック旅行物語(その18)=今のキプロスは

kipurosuキプロスの地図を見ると中ほどに点線が見える。
何だろう??
現在のキプロスはなかなか大変な国になっているのだ。

ウィキペディアによると、次のような具合。


第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。

南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。
2004年、EUに加盟。

Cy-map-ja

北と南の間には緩衝地帯があり、またイギリスの基地もあるのだ。
このことを知らずに訪問しちゃった人の面白いブログを発見。
南から北へ、北から南へは簡単には行くことができないらしいので驚く。

★面白いブログ発見(現在のキプロス)
http://www.komoda.org/archives/2417
★もう一つ発見
北キプロス
http://ameblo.jp/p-chaishin/entry-11864444821.html
南キプロス
http://ameblo.jp/p-chaishin/theme2-10082005841.html
キプロス情報
http://ameblo.jp/p-chaishin/theme- 10082005841.html

聖地巡礼パック旅行物語(その19)=首都ニコシアへ

サントブラスカさんたちは、船を降りると、さっそく首都のニコシアへ向かったようだ。

首都のニコシアへむかう。
 ニコシアでは、聖地巡礼の仲間の一人から、彼の親友でミラノ生まれでもある、裕福な商人を紹介された。この人は、キプロスに長く、この地で手広く商いをしている。ニコシア滞在中は、この人の家で泊まった。女王にも、接見を賜った。女王カテリーナはヴェネツィア生まれで、だからキプロスは、今では事実上のヴェネツィア領である。

首都のニコシアは内陸にあるので、馬で行くわけ。
今のニコシアと、昔の面影と探ってこよう。

驚いたことに、南キプロスの首都も、北キプロスの首都も、ニコシアにあるのだという。
首都も真ん中から半分に分けている訳。市内には緩衝地帯はないとの事。
写真はクリックで大きくなります。

North_Nicosia_collage

北のニコシアの写真

500px-Nicosia_Collage

南のニコシアの写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニコシアの古い建築物では、ビュユック・ハンというキャラバンサライが有名で、北のニコシアにある。
ヴェネツィアの支配が終わり、オスマン帝国の支配下となった1572年に建てられたのだそうだ。

キャラバンサライは、旅の商隊が寝泊まりしたり、売り買いしたりする場所を提供している所だ。
私もトルコを旅したときに、訪ねたキャラバンサライの大きさにびっくりしたものだ。

ここは、海を渡って訪ねてくる商人たちのものだろうが、とてもきれい。
イスラムとかオスマントルコはとかく残虐でと嫌うが、商業については、良い政策をしていたと言えそう。

ビュック・ハンの写真 グーグルアースのフォトツアー 
ムスタファさんの写真
https://ssl.panoramio.com/photo/11874886