カテゴリー別アーカイブ: 聖地巡礼の続き

サントブラスカさんのキプロス見学

さて、女王との謁見も終わって、サントブラスカさんは精力的にキプロスを見て歩いたようだ。
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キプロス島の町々は、ヴェネツィア風の建物が多くて美しい。それに、種々の果物のほかに、最上質の葡萄酒と塩と綿花の産地としても有名である。何につけても恵まれていて、人の住むには天国だが、ただ一つ、この暑さだけはたまらない。人々は短い袖のシャツを着て、その上に長い上着を羽織った姿だ。キプロスには、意気の時には島の南端に立ち寄っただけだったので、この機会に充分に見ようと、暑さにも負けずに見物に出歩く。
塩田も見学した。実に良く整備されていて、ヴェネツィア人が経営している。西欧で用いる岩塩でない塩は、この地から出荷されているものが多いとか。塩田の広さを実際にこの目で見た後では、それが事実であることを納得させられた。
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葡萄酒と言えば、確かにキプロスのワインは上質と定評があるらしい。
特にコマンダリアというワインが有名で、伝説にまでなっているらしい。
http://www.kyobare.co.jp/comm-his.php
http://www.budouya.jp/user_data/cyprus.php

クレオパトラも飲んだとか。港のあるレメソスなどで盛んに作られているとの事。

塩のこともあちこちで見かける。
ドロゲリア ピラミッドソルトビアンコ(キプロス産海塩) 380g
http://ciojapan.shop-pro.jp/?pid=27251572

パリパリ、さらりとした食感、手で潰して楽しむ塩。揚げ物の付け塩、カルパッチョの仕上げに。
トルコの南東、地中海の美しい海に浮かぶキプロス島にて、地中海の海水を塩田濃度を調整しながら天日で結晶化した海塩です。
その結晶の形はピラミッドの形をしている為「ピラミッドソルト」とも呼ばれています。

塩田が作られているとサントブラスカさんは言われているが
塩湖もあちこちにあるようで、ラルナカの塩湖は観光地になっているようだ。

聖地巡礼パック旅行物語(その16)=巡礼を終えてヤッファに戻る

水爺さんの聖地巡礼の続きをなんとか作りたいと資料を集めたりしてみました。
が御大の後を引き継ぐのは、ちょっと畏れ多く、できるのかどうか不安です。
まずは練習をしてみることにしました。
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帰途について語り始めるのは、ここから

 8月8日
 夜明け前にそれぞれの荷をまとめてイェルサレムを後にする。
 二人のイギリス人がシナイ半島を回り、カイロを経て、アレキサンドリアからヴェネツィア船に乗って帰る「特別コース」を取ることになり、ここで別れる。
 この二人以外は、全員が船長、ガイド、僧たちに引率されてろばにのり、来た時と同じ道を通って、ヤッファの港に着いた。翌々日の夕暮れであった。
8月10日
 ヤッファの港に着いた我々を「コンタリーナ号」の船員たちが小舟を駆って迎えに来てくれた。ラッパは鳴らす、太鼓は叩く、リュートは弾くの賑やかさで、大歓迎。我々が悪魔の懐から脱してきたのを喜ぶかのようだった。

水田さんは、7月20日 この地にサントブラスカさんたちが到着したときの記事をこのように書いておられる。 水田さんのヤッファの記事
イェルサレムもヤッファ(テルアビブ)も、戦乱の地である。
現在のヤッファについてはここに

サントブラスカさんたちは
7月20日から8月8日まで、聖地のあちこちをロバで巡る旅をしてきたわけだ。。
その間の出来事について、水田さんがまとめてくださるとの事。私達は船の旅をご一緒しよう。

船の仲間たちが楽器の演奏で迎えてくれたそうだが、リュートってどんな楽器だろう?
ウィキペディアで調べてみた。

8-course-tenor-renaissance-lute-04   1024px-Michelangelo_Caravaggio_020

 

 

ギターのようなマンドリンのような形。 頭がないのかと思えば、後ろに折れ曲がっている。

ラッパはヨーロッパでは郵便屋さんが鳴らしたらしい。ウィキペディアで見つけた画像はこんな
440px-Posthorn-echt

 

 

 

 
「14世紀 太鼓 ヨーロッパ」で検索すると、こんな画像が出てきた。
トルコの軍楽隊のものだ。
太鼓は、太古よりあったんだろうな。
http://tokyowe

聖地巡礼パック旅行物語(その17)=ヤッファからキプロスへ

8月11日、ヤッファを出航   15日 キプロス島に着く とある。

8月11日、夕方になって、ヤッファを出港する。
風は順風。帆だけで航行して、15日の日にキプロス島に着く。
ここから、船長の兄のアンプロージオ・コンタリーニ殿が、3年にわたったキプロス皇室顧問官の職務を終えて、母国へ帰られるので、われわれの船に同船することになる。
その準備が終わるまでの間を、巡礼たちは、キプロス見物に費やすことにした。

1

ヤッファは今のテルアビブなので、まっすぐ北の方へ行ったわけだ。

キプロスはどんな島だろう。

往路にレメソス(リマソール)を出航してヤッハへ向かうとあるので、
復路の港も、レメソス(リマソール)と思われる。

キプロス第2の都市との事。12世紀にイングランド王リチャード1世とナバラ王国の王女ベレンガリアが結婚式を挙げた地。レメソス城があり、ワイン産地としても知られる。

【レメソス城】は
レメソスにある中世の城。12世紀にイングランド王リチャード1世とナバラ王国の王女ベレンガリアが結婚式を挙げたとされる。オスマン帝国時代には牢獄として使われた。現在は中世博物館になっている。
いまはこんな形でのこっている。屋上の景色

聖地巡礼パック旅行物語(その18)=今のキプロスは

kipurosuキプロスの地図を見ると中ほどに点線が見える。
何だろう??
現在のキプロスはなかなか大変な国になっているのだ。

ウィキペディアによると、次のような具合。


第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による反イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年、イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。

南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。
2004年、EUに加盟。

Cy-map-ja

北と南の間には緩衝地帯があり、またイギリスの基地もあるのだ。
このことを知らずに訪問しちゃった人の面白いブログを発見。
南から北へ、北から南へは簡単には行くことができないらしいので驚く。

★面白いブログ発見(現在のキプロス)
http://www.komoda.org/archives/2417
★もう一つ発見
北キプロス
http://ameblo.jp/p-chaishin/entry-11864444821.html
南キプロス
http://ameblo.jp/p-chaishin/theme2-10082005841.html
キプロス情報
http://ameblo.jp/p-chaishin/theme- 10082005841.html

聖地巡礼パック旅行物語(その19)=首都ニコシアへ

サントブラスカさんたちは、船を降りると、さっそく首都のニコシアへ向かったようだ。

首都のニコシアへむかう。
 ニコシアでは、聖地巡礼の仲間の一人から、彼の親友でミラノ生まれでもある、裕福な商人を紹介された。この人は、キプロスに長く、この地で手広く商いをしている。ニコシア滞在中は、この人の家で泊まった。女王にも、接見を賜った。女王カテリーナはヴェネツィア生まれで、だからキプロスは、今では事実上のヴェネツィア領である。

首都のニコシアは内陸にあるので、馬で行くわけ。
今のニコシアと、昔の面影と探ってこよう。

驚いたことに、南キプロスの首都も、北キプロスの首都も、ニコシアにあるのだという。
首都も真ん中から半分に分けている訳。市内には緩衝地帯はないとの事。
写真はクリックで大きくなります。

North_Nicosia_collage

北のニコシアの写真

500px-Nicosia_Collage

南のニコシアの写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ニコシアの古い建築物では、ビュユック・ハンというキャラバンサライが有名で、北のニコシアにある。
ヴェネツィアの支配が終わり、オスマン帝国の支配下となった1572年に建てられたのだそうだ。

キャラバンサライは、旅の商隊が寝泊まりしたり、売り買いしたりする場所を提供している所だ。
私もトルコを旅したときに、訪ねたキャラバンサライの大きさにびっくりしたものだ。

ここは、海を渡って訪ねてくる商人たちのものだろうが、とてもきれい。
イスラムとかオスマントルコはとかく残虐でと嫌うが、商業については、良い政策をしていたと言えそう。

ビュック・ハンの写真 グーグルアースのフォトツアー 
ムスタファさんの写真
https://ssl.panoramio.com/photo/11874886

聖地巡礼パック旅行物語(その20)=当時のキプロスは?

サントブラスカさんが訪ねた時のキプロスの様子はどうだったんだろう。

ウィキペディアには


キプロスは1191年に十字軍の途上にこの島に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によって征服され、フランク人(西ヨーロッパ人カトリック教徒)の支配するキプロス王国が建国される。
キプロス王国は1489年に相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国がキプロスを植民地として手に入れた。
オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 – 1573年)(英語版)では、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版)(オスマン領キプロス)を置いた。


とあるので、
サントブラスカさんの旅は西暦1480年の事だから、
ヴェネツィアがまだキプロスを完全に植民地としていなかったことになる。

このあと彼は、ヴェネツィアから来たキプロスの女王カテリーナ・コルナーロとの接見を賜った
事になるので、いくつの時だったのかな? 興味津々
サントブラスカさん 36歳 カテリーナ・コルナーロは26歳
いい出会いだったと思いたい。

女王カテリーナは1473年に夫を亡くし、その翌年子供を無くして、自分が女王となったのが1474年 – 1489年だからサントブラスカさんとあったのは、ちょうど女王として君臨していた時になる。
あ、退任したその後にヴェネツィアの植民地になったわけだ。

残されている肖像画を子細に眺めたら、謎にぶち当たった。左の絵が88歳の時って、おかしい。
1474年に生まれて、1510年55歳で亡くなっているのだ。1500年だと45歳ってことだ。

Portrait_of_Caterina_Coronaro_1542_uffizi_florence_Titian

1542年に描かれた
88歳の時

Gentile_Bellini_002

1500年に描かれた
46歳の時

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテリーナ・コルナーロの一生について
塩野七生さんの本「ルネサンスの女たち」に、4傑の一人として描かれている。
このカテリーナの話も紹介してみたい。

聖地巡礼パック旅行物語(その21)=女王カテリーナ・コルネールのこと

Makart_hans_venedig_huldigt_caterina_cornaro

カテリーナ・コルネールに敬意を表すヴェネツィア
(クリックで大きな写真をご覧になれる。)

 

貴族の娘だったカテリーナは14歳の時に、ヴェネツィア王国の娘という地位にまつられて、
キプロスの王様と結婚の儀式をする。ベネチュアで、王様の代理の人との間に。
でもって、その後は修道院で4年間を過ごすことになるのだ。

ヴェネツィアは何としてもキプロスを植民地にして、安心して船を航行できるようにしたい。
大陸側からは、トルコがどんどん席巻して来ているので、
キプロスも、自分たちだけでは守りきれず、どこかに守ってもらわざるを得ないわけだ。