ハンニバル・第二次ポエニ戦争(2)

以下はウィキペディアよりもらいました。

紀元前221年カルタゴはローマとエブロ川を境界として相互不可侵条約を結んでいたが、ハンニバルの力を恐れたローマはエブロ川南方にある都市サグントゥム(現サグント)と同盟関係を結び、彼の侵出を阻止しようとする。しかし、ハンニバルはサグントゥムを包囲攻撃し、八ヶ月後に陥落させた[1]。ローマはハンニバルの行動を条約違反としてカルタゴ政府に懲罰を要求したが、ハンニバルの絶大な人気の前に、カルタゴ政府は彼に対して何の手も打てなかった。

紀元前218年、ハンニバルはカルタゴ・ノウァを出発。はじめハンニバルの軍勢は歩兵 90,000人(リビア兵 60,000、スペイン兵 30,000)、騎兵 12,000(ヌミディア兵主体)、戦象 37 頭、カルタゴの伝統通り将官以外は全て傭兵だったという[2]。ハンニバルはエブロ川を渡ったところで、歩兵 10,000 人、騎兵 1,000 人をピレネー山脈からエブロ川までの守りに残し、また遠征に不安を抱いたスペイン兵は帰還させた。ハンニバルの軍勢は歩兵 50,000 、騎兵 9,000 、戦象 37 頭となった。これを率い、ハンニバルはピレネー山脈を越えガリアに入った。

ローマはハンニバルのガリア侵入に気付いたが、深い森林のためにすぐに彼の軍勢の所在が分からなくなった。ハンニバルはローヌ川を渡るにあたり、騎兵を上流から先発させて対岸のガリア人を掃討し、妨害を排除したが、渡河は危険であり、多くの犠牲が出た。ここでハンニバルの軍勢は歩兵・騎兵あわせて 46,000 まで減った。戦象も 30 頭は健在だったようである。この渡河の際、ローヌの下流を巡回していたハンニバルの騎兵 500 が、ハンニバル軍を探索するローマ騎兵 300 と戦闘になった。索敵していたローマの執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオが現地に駆けつけたが、彼の到着の3日も前にハンニバルは渡河を終え、アルプス山脈に向かっていた。

ついにハンニバルはイタリア半島へ進軍し、ローマの元老院を驚愕させる。第二次ポエニ戦争(別名、ハンニバル戦争、紀元前218年 - 紀元前201年)の始まりであった。

アルプス越えの図(ウィキペディアより)

alps第二次ポエニ戦争(こんな解説も!)ざっくりをYoutubeからもらいました(←クリック)

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