ポエニ戦争結末とその後(4)

以下ウィキペディアからもらいました。長いのでかなり端折っています。

ローマはハンニバルの攻撃は予測していたが、まさかアルプス山脈を越えて侵攻してくるとは思ってはおらず、イベリア半島での戦闘準備を行っていた。執政官プブリウス・コルネリウス・スキピオは直ちにハンニバルの動きを阻止すべくローマ軍を出動させるが、ティキヌスの戦いでハンニバルに撃破され、スキピオ自身も負傷する。

ハンニバルはトラシメヌス湖畔の戦いで不衛生な沼沢地の行軍などにより、疫病で左目の視力を失うもジャンジャカ勝ち進んだ。 ローマは非常事態宣言を発令し、クィントゥス・ファビウス・マクシムス独裁官に任命し、ファビウスはハンニバルと対峙しつつ直接の戦闘は避けるという方針で臨んだ。 ファビウスはハンニバル軍に接近するものの、ハンニバルが戦いの火蓋を切ろうとすると退くということを繰り返す。

カンナエの戦いではローマ軍を完膚なきまでに叩き潰すが・・・

これ以降ローマはハンニバルに対して消極的な戦法に徹する。

カルタゴ政府は初めは日和見の立場を取っていたが制海権をローマに握られているせいもあって、ハンニバルは本国とうまく連携することができなかった。

ローマ側の反撃、スキピオ登場

ローマはハンニバルをイタリア半島に封じ込めながら、国外の敵対勢力を各個に撃破・無力化して行く。

紀元前207年、ハンニバルは再度北上してアプリア地方を制圧、ここでイベリア半島から西進する弟・ハスドルバルの支援を待ったが、ハスドルバルはその途上にメタウルスの戦いで戦死してしまう。さらにハンニバルと行動を共にしていた弟・マゴリグリア攻略失敗、またピリッポス5世との連携の失敗などによって、南イタリアでの主導権回復の術を失う。

ザマの戦い

ザマの戦いはそれまでのハンニバルの戦いと異なり、歩兵ではカルタゴ有利なものの騎兵ではローマ軍に劣るという状況であった。この劣勢を覆すためにハンニバルは先頭に戦象を配備した。敵に戦象がいる事を知ったスキピオは、軽装歩兵で編成されている歩兵中隊を広い間隔で配置し、直進しかできない戦象を回避させ、無力化する事に成功した。大集団の密集した重装歩兵を基幹とするカルタゴ軍は機動力に勝るローマ軍の騎兵に後方から攻撃され、また前面からはローマ歩兵に包囲されて大敗した。これによってカルタゴの地中海での優位性は完全に失われ、第二次ポエニ戦争はカルタゴの敗北に終わった。

※ここは私の感想ですが、なんでこんなにまでして憎み突き進むのだろう? 後には引けないってこと? 自分の力を試しているの? 自分一人だけなら立ち止まることも出来るけどリーダーとなると自分の思いだけでは立ちいかなくなるの? ハンニバルもカンナエの戦いの後でタズナを緩めたけど、同時にローマ軍の消極戦法と対峙して・・ ハンニバル戦法を学んでハンニバルを絶対に抹殺したいスキピオに結局はやられる。 戦いは嫌いだけど敵に塩を贈る、涙を呑んでお家断絶だけは避けようとする・・  謙信とか兼続のような日本の戦いの方がまだマシな気がするなぁ~ 。

戦後

カルタゴ再建

第二次ポエニ戦争後、カルタゴはローマの同盟国になることを強要され、膨大な賠償金を課せられ、国の前途も危ぶまれた。しかしそれまでカルタゴの政治を牛耳っていた貴族たちが権勢を失い、敗軍の将であるハンニバルの返り咲きが可能になった。彼は先頭に立って母国の経済建て直しを図る。

ハンニバルは行政の長であるスッフェトに選ばれ、改革の陣頭指揮を取る。まず名誉職に過ぎなくなっていたスッフェトの権限を回復し、自分に権限を集中させた。次いでカルタゴの行政母体である「104人委員会」の改革に着手する。直接選挙によって議員を任命することとし、また民衆の支持を背景に議員の任期を終身から2年へと変更した。ハンニバルの行政改革は効果を挙げた。そして改革の結果賠償金返済を完遂し、彼は軍人としてのみならず政治家としての手腕の高さも証明した。

確かにハンニバルはローマを滅亡の渕まで追い込むことに成功した。しかしローマはハンニバルと戦うことで、ハンニバルの包囲殲滅戦術を身につけ、マケドニア戦争やローマ・シリア戦争にも完勝する程の強大な存在となった。

その後ハンニバルはシリアへ亡命

最期は

シリア戦争の後、ハンニバルはローマの追っ手から逃れる為にクレタ島、さらに黒海沿岸のビテュニア王国へと亡命した。暫くはローマ側もハンニバルがビテュニアへ留まっていたのを知っていたが、元老院の使者としてビテュニアを訪れたティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌスはビテュニア王(プルシアス1世)に対し、ハンニバルの身柄の引渡しを迫った。これを察知したハンニバルは逃亡を図ったが、果たせずに自殺した[4]。 奴隷に首を絞めさせたとも、毒薬を仰いだとも伝わっている[5]

なお、没年は紀元前183年か紀元前182年とされるが、ハンニバルのかつての好敵手スキピオ・アフリカヌスもローマ元老院の弾劾を受けて政界を退き、ローマを離れた地で紀元前183年に没している。

ポエニ戦争結末とその後(4)」への1件のフィードバック

  1. QQさんの感想を読んで!
    ハンニバルの個人的要素(祖父から命じられた、カルタゴが受けた恥辱をそそぐ)もあるでしょうが、それとは別にちとチェスと将棋の比較を思い出しました。
    チェスは捕った相手の駒は生き返らない。(ただ抹殺するだけ)
    将棋は相手から捕った駒を使うことが出来る。(決して殺さず、味方として生き返らす)
    これには西洋と日本の文化の決定的な違いを感じます。

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